『夜のピクニック』 恩田陸
2005年 05月 24日
先週の土曜日、出かけたときにこの本を買い、帰りの電車で勉強するのも疲れたのでこの本を取り出して開いてみた。
はじめ、人物と名前が一致せず大丈夫かなとちょっと心配になったがほどなく引き込まれてしまった。
けれど、引き込まれつつも数ページ読んで本を閉じてしまった。
読みたくない、と思ったのだ。
おもしろくなさそうだと感じたわけでもない。読んだら嫌な気分(不快、あるいは悔しさ)になるかもしれないと思ったわけでもない。
すごく楽しみにしていた、憧れの人との初デートの直前、ウキウキしているんだけどなぜか逃げ出したくなるような、強いて言えばそんな気分に少し似ているかもしれない。
うんと単純に表現するなら、楽しみを先延ばしにしたい、というだけのことかもしれない。でもそれだけではない。
これを読んだらしばらく現実に戻れなくなる。私の日常の中でなにかが小さく変わらずにはいられなくなる。そんな確信めいた小さな不安感。
そういう感情を抱きつつ、昨日の電車の中で再び、今度は本格的にこの小説を紐解いた。
一番最初はスティーブン・キング(が筆名で書いた)の『死のロングウォーク』みたいなスリラーなのかなと思っていたのだ。あるいは『バトル・ロワイアル』のような青春ホラー(ちなみに私はどちらも好きだし、特に『バトル・ロワイアル』には感動した)。
ぜんぜん違った。さわやかな青春小説、学園小説だった(私は青春小説も好きだ)。
毎年1回開催される全員参加の学校行事。朝8時から翌朝8時まで24時間で80キロを歩き通すという歩行祭。前半がクラス単位の団体歩行、後半が自由歩行。自由歩行になると、みなそれぞれクラブの友達や親友と一緒に、ある者は走って上位入賞を目指す。ある者は完歩するのがやっと。ある者は時間切れや負傷で救護バス送りになり完歩できない。そしてまたある者は、胸に秘めた思いを、相手に打ち明ける。ある者は、秘めたる思いを自分の胸にしまいこんだまま卒業を予感する。
物語の核となる男女二人。そのうちの女子のほうの貴子は、卒業を控えた高校生活最後のこの歩行祭で、自分の中である賭けに出る…。
何かが起こりそうな設定である。が、意外と淡々と物語は進んでいき、最初に予想していたような波乱万丈な展開は起こらなかった。でもところどころに仕掛けがあって、著者の他の作品を読んでいないが基本的にはミステリー作家なのだと思った。そして最後にじんわり目頭が熱くなる。
私もこういうの、やりたかった。自分の高校に、こういうイベントがあれば良かった。読んでいて羨ましくなった。歩くのは好きなほうだから、自分の極限を試してみたいのだ。24時間もあれば80キロくらい歩き通せると思うのだが、実際はどうなのだろう。
そして高校時代の私だったら、憧れていた男子生徒をずっと目で追い続けて、でも男子の足には適わなくてついていけず、結局何も無いまま終わるのだろうな。そんな気がする。
現実の高校生たちは、こんな話し方をしないし、こんなふうに考えたりもしないかもしれない。この小説が描き出しているのは現実の高校生ではなく、読み手1人1人の中にある《こうありたかった自分》《こんなふうにありたかった学校生活》なのかもしれない。だからこれは貴子の、融の物語ではなく、これを読んだすべての人のそれぞれの物語でもありえる。読みながら私もしばしの間、高校時代の仲間たちと一緒に歩いていた。あんなことを話したかったし、こんなことも話したかった。そしてMくんの姿を見つけたら、今度こそきっと…。
読み終わり、我に返る。これまでの、自分が本当に歩いてきた現実の道をふと、思う。
この道だって、ぜんぜん悪くはない。
そしてこの小説を読んで私は、最初に不安に思ったように、読み始める前と較べて何かが変わっただろうか。
おもしろい物語を読んだ興奮と感動で少しぼうっとしているけれど、たぶん何も変わってはいないと思う。人生を変えてしまうような小説になんて、そう何度も出会えるわけではないし、出会うとしたらもっと若い、10代の頃だろう。
たぶん、それを知ってしまうことが読む前に一番、私が怖れていたことなのだ。でも現在青春時代真っ盛りの者には、こういうこともわからないんだろうなあ。そのことを知っている自分というのも、それはそれでそう悪くはないと思えるのだ。
はじめ、人物と名前が一致せず大丈夫かなとちょっと心配になったがほどなく引き込まれてしまった。
けれど、引き込まれつつも数ページ読んで本を閉じてしまった。
読みたくない、と思ったのだ。
おもしろくなさそうだと感じたわけでもない。読んだら嫌な気分(不快、あるいは悔しさ)になるかもしれないと思ったわけでもない。
すごく楽しみにしていた、憧れの人との初デートの直前、ウキウキしているんだけどなぜか逃げ出したくなるような、強いて言えばそんな気分に少し似ているかもしれない。
うんと単純に表現するなら、楽しみを先延ばしにしたい、というだけのことかもしれない。でもそれだけではない。
これを読んだらしばらく現実に戻れなくなる。私の日常の中でなにかが小さく変わらずにはいられなくなる。そんな確信めいた小さな不安感。
そういう感情を抱きつつ、昨日の電車の中で再び、今度は本格的にこの小説を紐解いた。
一番最初はスティーブン・キング(が筆名で書いた)の『死のロングウォーク』みたいなスリラーなのかなと思っていたのだ。あるいは『バトル・ロワイアル』のような青春ホラー(ちなみに私はどちらも好きだし、特に『バトル・ロワイアル』には感動した)。
ぜんぜん違った。さわやかな青春小説、学園小説だった(私は青春小説も好きだ)。
毎年1回開催される全員参加の学校行事。朝8時から翌朝8時まで24時間で80キロを歩き通すという歩行祭。前半がクラス単位の団体歩行、後半が自由歩行。自由歩行になると、みなそれぞれクラブの友達や親友と一緒に、ある者は走って上位入賞を目指す。ある者は完歩するのがやっと。ある者は時間切れや負傷で救護バス送りになり完歩できない。そしてまたある者は、胸に秘めた思いを、相手に打ち明ける。ある者は、秘めたる思いを自分の胸にしまいこんだまま卒業を予感する。
物語の核となる男女二人。そのうちの女子のほうの貴子は、卒業を控えた高校生活最後のこの歩行祭で、自分の中である賭けに出る…。
何かが起こりそうな設定である。が、意外と淡々と物語は進んでいき、最初に予想していたような波乱万丈な展開は起こらなかった。でもところどころに仕掛けがあって、著者の他の作品を読んでいないが基本的にはミステリー作家なのだと思った。そして最後にじんわり目頭が熱くなる。
私もこういうの、やりたかった。自分の高校に、こういうイベントがあれば良かった。読んでいて羨ましくなった。歩くのは好きなほうだから、自分の極限を試してみたいのだ。24時間もあれば80キロくらい歩き通せると思うのだが、実際はどうなのだろう。
そして高校時代の私だったら、憧れていた男子生徒をずっと目で追い続けて、でも男子の足には適わなくてついていけず、結局何も無いまま終わるのだろうな。そんな気がする。
現実の高校生たちは、こんな話し方をしないし、こんなふうに考えたりもしないかもしれない。この小説が描き出しているのは現実の高校生ではなく、読み手1人1人の中にある《こうありたかった自分》《こんなふうにありたかった学校生活》なのかもしれない。だからこれは貴子の、融の物語ではなく、これを読んだすべての人のそれぞれの物語でもありえる。読みながら私もしばしの間、高校時代の仲間たちと一緒に歩いていた。あんなことを話したかったし、こんなことも話したかった。そしてMくんの姿を見つけたら、今度こそきっと…。
読み終わり、我に返る。これまでの、自分が本当に歩いてきた現実の道をふと、思う。
この道だって、ぜんぜん悪くはない。
そしてこの小説を読んで私は、最初に不安に思ったように、読み始める前と較べて何かが変わっただろうか。
おもしろい物語を読んだ興奮と感動で少しぼうっとしているけれど、たぶん何も変わってはいないと思う。人生を変えてしまうような小説になんて、そう何度も出会えるわけではないし、出会うとしたらもっと若い、10代の頃だろう。
たぶん、それを知ってしまうことが読む前に一番、私が怖れていたことなのだ。でも現在青春時代真っ盛りの者には、こういうこともわからないんだろうなあ。そのことを知っている自分というのも、それはそれでそう悪くはないと思えるのだ。
by wumingzhi
| 2005-05-24 15:03
| 読書