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三重県津市でヨガを教えています。ヨガのことだけでなく、日々のいろんなことを書いていきます。


by NAO
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ヨーガセラピスト養成講座後期二年間のカリキュラムが始まった。

前期1年間学んだ友と再会。
すべての人が後期に進んだわけではない。前期が50数人、後期は22人だった。

講義や実技の練習ではまだ前期と大差なかったが、最初に自己紹介を兼ねて後期に進んだ動機を言うことになった。

私は一番に発言した。昼食の時間だったので、早く言って落ち着いて食事を取りたいから。

自分の挨拶が終わり、他の人たちの話を聞いて、いろいろ考えさせられた。

もとより、うまく話そうなんて思わないが、言うべきことをほとんど言わず、言わなくても良いような、どうでも良いことだけ話してしまった。

中身のある話ができない私。もっと少人数なら話せるけれど、こういうところでは話したくないと思ってしまう。少なくとも今はまだ、話したくない。

みんなが発言を終えて、最後にもう一度マイクを借りて話したくなった。
「私が後期YTICに進んだのは、中身のないからっぽの自分を埋めるためです。2年間で少しでも自分という容器を中身で満たせるようがんばります!」

…言わなかったけど。時間もなさそうだったし。

他の人は、仕事を持っていてさらにヨガも教えていながら、ヨーガセラピスト目指して勉強しているという人も多い。私みたいに何もしていなくて時間があるから取り合えず資格を取るために勉強してみるか、というようなのん気な人はほとんど見当たらない。

厳しいという後期のカリキュラム、脱落しないでついていけるだろうか。
後期課程に進むことを快諾してくれた夫のためにもがんばるしかない。

自分が何か勉強していないと不安だから勉強するのだ。そんな動機じゃだめなんだと思う。でも、なんでそんな動機じゃだめなのか? 誰がそんなこと決めたのか? そう問われると答えられない。

以前私が出かけるのを娘がいやがって泣いたことがあったので(それは講座出席のためではなく園ママとの飲み会であったのだが)、今回は娘に黙って出かけることにした。娘が寝ている早朝にこっそり家を出た。

昨日は夫は娘を予防接種に連れて行き、水族館に連れて行き、サティに食事に連れて行ってくれたらしい。夫、大奮闘。

9時頃帰宅。もう娘は寝ているかなと思ったらまだ起きていて、私の似顔絵をプレゼントしてくれた。夫からは水族館のおみやげのイルカのネックレス。YTIC講座の時には必ずこのネックレスを着けて出席することにしよう。

娘はとてもご機嫌だったので良かった。

今朝は早く目が覚めたので早朝ヨガ練をした。瞑想と呼吸法含む。
最近全然ヨガの自主練をしておらず、教室にもあまり行けていない。これからなるべく早起きしてホームプラクティスに励む。

通っているヨガ教室の先生がインドに留学することになり、今後どうするか考え中だ。
ジムのヨガプログラムを取るか、ワークショップを捜して出かけるか、他の教室を探すか…。

先生の留学に際して、教室はその間お休みになるけれど、先生は別にカルチャーセンターでのクラスを持っている。実はそのクラスの代行を頼まれていたのだった。

私に? そんなん、無理です…。

と思ったけれど、やはりヨガの奉仕の精神に従わなくてはならないと思って、不安だったけど引き受けることにした。1ヶ月くらいだし、7月だからそれまで一生懸命指導の勉強したら何とかなるかな?
と思って。何かきっかけがないと教えることなんて始められないし、これはそのきっかけ・チャンスなのだと前向きに捉えるようにした。
でも、カルチャーセンター側がレギュラーの先生を見つけたそうで、代行講師の話はなくなった。

ホッとしたけれど、自分でも意外なことに、ちょっと拍子抜け。なーんだ、私、ヨーガ・ティーチャーやりたかったのかな、ホントは。

私は周りの人に本当に恵まれていると思う。人から与えられるばかりで、自分が人に返せるものが何もないというのが悩みだ。
インプットし終わらないとアウトプットできないとずっと思っているが、しかしインプットが終わるという日は来ないのだ。生涯学びであるから。ならば、自然の流れに任せてみようと思う。
# by wumingzhi | 2011-05-29 06:07 | Yoga

バレエストレッチ二回目

今日はバレエストレッチクラス二回目。

「ストレッチ」とはいえ、本人はすっかりバレリーナ気分?
封印するはずのレオタードも着てみたりして。

二十代の終わり頃通っていたバレエ教室の先生の影響が尾を引いていて、みっともないカラダをさらしたら叱られるんじゃないかと怯えていたけれど、レオタードを着て行ったらT先生は喜んでくださった。「キレイな足。トゥシーズ目指そう!」と励ましてくれた。

決して「キレイな脚」ではございません。「足」であります。足首から下の部分。

セールストークかもしれないけど、それにしたって、足/脚を褒められたことなんて生まれてから皆無な私には衝撃的に嬉しかったでござーる。

この教室は小学3年生からポアント(トゥシーズ)を履けることになっている。娘はあと3年。娘とどっちが先にポアント履けるか、私もちょっとがんばってみようかな。

「キレイな足」と言われたといっても、客観的に見て私の足はまったくカッコいい形ではない。幅が広く甲が高く、田舎っぽい。足の親指から第四指までがほぼ同じ長さで、故宮博物館の翠玉白菜に似ていると言えば言える。

トゥ(つま先)で立とうと思うと、足先・足首だけでなく、太もも・お尻・背中・から首筋、頭のてっぺんまでの筋肉を総動員させなければいけない。下垂する一方の年齢にさしかかって、バレエトレーニングはすごく良いのじゃないかという気がしてきた。

シルヴィ・ギエムのDVDを引っ張り出してきて見返したりしている今日この頃。
それにしても、今から15~16年前のまさにギエムの最盛期に生のステージを何度も観て、ちょこっと挨拶までできたという経験は一生の財産だったのだなあと、今になって思う。
# by wumingzhi | 2011-05-26 00:42 | 生活

反省日記

昨日は夫の不在をいいことに、ほとんど料理しなかった。今朝は娘にはスライスチーズをのせて焼いたトースト、自分はコーヒーのみ。昼はピアノをがんばったごほうびにミスド。私はドーナッツはあんまり好きじゃないので長いもとオクラと納豆に生卵を入れて食べる。オクラも火を通さないので調理せず。

反省というわけでもないが、晩御飯は夫も帰っていることだし、野菜のキッシュを作った。娘は喜んで結構食べてくれた。やっぱり多少工夫したら喜んでくれるもんだなあ。でもキッシュ、手が込んでいそうで案外簡単料理なんだけど。

夫がいないと料理もしないし掃除もしないし酒量も増える。私、もし独身とかシングルマザーだったら絶対、人間としてだめになりそうだ。一人でもちゃんとできる人なら問題ないけれど、とことん自堕落な人間である私には、そばにいて見張ってくれる人が必要だ。
Someone to watch over me.
って違うか。
# by wumingzhi | 2011-05-22 19:20 | 生活

だらしな日記

夫が東京に出張している。

ウソである。遊びに行っている。

私と娘はお留守番。

娘と二人きりで夜を過ごす。ありそうで、意外とあまりなかった。

私が1日出かけていて夫に娘を見てもらうときは、夫は娘を喜ばせようといろいろ考えるみたいなのだが、私は特に工夫はなし。

お留守番初日の昨日は、夫を(玄関まで)見送ってから、娘をピアノのレッスンに歩いて連れて行った。徒歩10分足らず。

レッスンから帰り、お昼を食べる。フルーツで済ませようとするが、娘はフルーツを食べない。

おなかがすいていないのなら、極限まで空腹になったら何か食べるだろうと思い、娘は放っておいて昼寝する。娘もいつのまにか一緒に寝ている。

昼寝から覚めて、ブログを書いたりしていると娘が起きてくる。

モーツァルトのCD(子供用)が聴きたいというのでかけさせる。私はブログ更新を続け、娘はCDに合わせて踊っている。

ピアノの練習しないの? と言うと不機嫌になり、ふてくされて部屋を出て行った。娘はピアノよりバレエのほうが好きみたいだなー。

夕食は生協で買った、石川産のえびのすり身の練り天を揚げて食べさせる。お昼抜きなのでぱくぱく食べるかと思ったら、思ったほど進まない。娘はごはんが好きで、納豆と卵をかけてご飯が食べたいというが、練り天を食べるまでごはんはなし、と宣言する。

すると娘、
「もうおなかいっぱいで食べられない」
と言う。
「じゃあもう食べなくていいから。おなかいっぱいならごはんは食べないでいいよ」
と言うと、
「ごはんは食べる」

要するに、おかずは食べずにごはんが食べたいのだ。そんなことは許さない。

やっとこさ練り天を食べ、納豆卵かけごはんにありつけた娘。
私は練り天をつまみに発泡酒を飲む。

昼はフルーツ、夜は練り天。すごく簡単な食事。夫がいないので、極力料理はしない方針でいく。節電です。うち、オール電化じゃないけど。あ、朝はホットーケーキ焼いたな。朝は夫がいたので。

パパが不在だと娘はろくに料理もしてもらえないし、ちょっと可哀想な境遇かも。でも、がんばって料理したところであんまり食べないしなあ~。私の料理がヘタだからなんだろうか。悩む。

友達が遊びに来たりすると、ここぞと張り切って料理するので、友達は私のこと料理上手と思ってるみたいなんだが…現実はこんなものです。
喜んで食べてくれる人がいると喜んで作ります。娘が喜んで食べてくれるおかずはなんだろう。おなかがすいてないから食べないのだ、と思って昼を抜いてもあんまり食べなかったし。

夜は娘のリクエストで劇団四季の『人間になりたがった猫』のDVDを鑑賞。すっかり遅くなり眠くなったので寝る。
# by wumingzhi | 2011-05-22 08:52 | 生活
この作者の『お母さんという女』を読んだことがある。とても良かった。

旅行はあまり好きでなく、一人旅はしたことのない私だが、旅行記を読むのは好きなのである。

旅行が好きでないと書いたが、最近はそうでもない。小さな旅行は家族でちょこちょこ行っているが、どこに行っても楽しかった思い出ばかり。

しかし、旅行が好きでなかった時代が長いので、あまりいろんな土地に行ったことがない。

なんで旅行が好きでなかったかというと、単に出不精だったから。出不精はデブ症とはよく言ったものである。

一人で旅行できる人に憧れがある。羨ましいなあと思う。私は絶対無理だ。

…と長く思ってきたが、最近はそうでもないと感じるようになった。私は案外一人旅が好きになるかもしれない。そんな気がする。現実に、5歳の娘を置いて一人で旅に出かけることが不可能だからそんなふうに思うのかもしれない。

本書で著者は、そんな私の憧れを体現している。
30代の女性が月に一度、都道府県を一箇所旅をする。すごく面白そうだ。そんなこと考えもしなかったが、自分もいつかやってみたいと思わせられる。

しかし、読み始めてみて、何か違うなと思った。著者がまったく旅行を楽しんでいないので、読んでいて少し辛く感じた。時々、私などには唖然とするような行動に出ている。

それは、食事のこと。著者は魚介類が好きではないという。しかし、旅先で名物だったりすると、無理して海鮮丼を注文してみて、食べられず後悔したりする。

なぜ注文する? 嫌いなのに? ワケがわからない。

食べられないで残すならまだ良い。残したら申し訳ないと思って、ハンカチに包んでカバンに隠したりするのだ。理解できない。もし私が、一人で来ている人が海鮮丼をハンカチに包んでカバンに入れているのを目撃したとしたらぎょっとするだろう。

同じような失敗を繰り返している。仙台では名物の牛タンを並んで注文し、やっぱり牛タンは嫌いなので食べられない…となる。このときは残して立ち去っている。好きじゃないのに並んでまで注文してみようとするのがよくわからない。

何回かこういう失敗を繰り返し、もう旅先だからといって名物を食べようとするのはやめようと決意する。そしてホテルの部屋でコンビニで買ったものを夕食にしたりする。

極力、地元の人と触れ合わないようにしているのも私からすると???な姿勢だ。
そして、終始一人であるということを意識しすぎて自意識過剰になっている。読んでいて痛々しくて気の毒になってしまった。

三重県や京都府、滋賀県など、私にとって縁のある、多少は知ってると思える県のどこに行ったのか、わくわくしながら読んでみると、
「ここに行くか? わざわざ? なんで?」
と思うところばかり行っている。三重、京都、滋賀、全部そうだったから、他の県の住民の人も同じように感じるかもしれない。

たとえば三重県では松阪の和田金に入ってすき焼きを食べている。普通、行かないでしょ和田金! しかも、生卵が苦手なのにはっきり言えないし。

私は知らない人と話をするのがまったく苦にならないので、関西人だからなのとトシのせいだと思っていたが、著者は大阪出身のほぼ同年代。歳や出身地はあまり関係ないもののようである。

バイキングは落ち着かない。高級店は怖気づいて入れない(でも和田金には入っている)。屋台は緊張する。お酒も飲めない。

運(旅運?)もないのかなあと思う。まつりを見に行ったら終わっていたり、渦潮を見に行ったら渦潮がなくて見られなかったり。

私はあんまり旅行が好きでなく、積極的にしてこなかったが、もしかしたら旅行運はすごくあるのかもしれないと思えてきた。自慢じゃないが、徳島で渦潮を見る船に乗ったときは、まったく何も知らなかったにもかかわらず、一年の中で最も渦潮の見られる月の、もっとも渦潮の見られる日の、最も渦潮の見られる時間帯ドンピシャだったし!

あの、ゼラチンのようなどろーっとした渦潮の光景は今も忘れられない。

しかし、なにか気になる本ではある。ある意味、ちょっと勇気が湧いてもくる。
「こういう感じでいいのだったら、私ならもっといい旅、できるよね?」
というような。

私の夫も好き嫌いが多いが、彼はなんというか、嫌いなものに対して毅然とした態度で接している。
食べられないものはまず注文しない。食べてみようともしない。そして、そんな自分を特別と思っていない。むしろ、そんなもの食べる人間のほうがどうかしている、と言わんばかりである(それは言いすぎか)。

常々、そういう態度はいかがなものかと思っていたが、この本を読んで少し考えを改めた。

この人みたいなほうが、周りはきっと気を使って疲れてしまうな。本人も疲れ、周りも疲れる。でも嫌いにはなれない人。そんな感じの本であった。

そういえば、この著者の作品に『どうしても嫌いな人』というのがあったな。どんなだか、今度読んでみよう。

この著者の『女ひとりで行ってみよう 海外編』があれば、絶対読むと思う。でもそれはない、と明言している著者である。
# by wumingzhi | 2011-05-21 17:42 | 読書